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ボク史のページへ 更新 07/01/05
新装開店というと聞こえはいいが
長いこと更新しなかったものだから 作り方や更新の手続きを忘却してしまった。
にっちもさっちも行かなくなって 無料ホームページ提供の会から一度退会して 今までの「柴田静男のページ」を御破算にした。
あらためて 同じ会に入りなおして これを作り始めた。
だから 新規開店である。
てさぐりで 作っている。
もう一つの方(授業)のホームページも壊れている。更新がうまくいっていない。
あちらは なんとかして 現状を生かして(アドレスを変えずに)復旧させたい
2006年6月11日 日曜日 雨
(私にとっては)おかしなことが起こっている。
ホームページビルダーのツールを使って更新していたのだが、うまく行かなくなった。
長い間待たされて、数分たってから「終わりました」が出るが、更新はされていない。
転送の設定をいじってみても、うまくいかない。
この更新は、エクスプローラーで、ftpサーバーを呼び出して、そこを使って更新している。
もう一つ
「授業」(私のもう一つのサイト)を、呼び出すと、不備な(メニューの出ない)ホームページが出る。そのページしか読めない。ところが―――
常用していないノートのパソコンで「授業」を呼び出すと、メニューもでて、リンクしたページにも飛べる。
但し、久しぶりに更新した分は、反映していない。
あなたのパソコンでは、うちの「授業」はどうみえているのだろうか。
こちらもエクスプローラーでサイトを呼び出すテを使おうとしたが、呼び出せない。
サーバー(scn-net)へ問い合わせ中。
同日 午後
日曜なのに scn-net から回答のメールが来て 教示あり。
サーバーの html ホルダーに アップロードしないといけないのを ルートに アップしていたのが原因。
ビルダーのツールでうまくいかなかったので、エクスプローラーで開いて、がしゃがしゃいじくり、
どうやら「授業」を復活させる。
これからの更新は どうやってやるかなあ、というところ。
2006年6月12日 月曜日 晴
Wカップサッカー ドイツ大会で初戦の 対豪州戦のある日である。
テレビを買いたい。
雑誌記事 カタログ 折り込み広告 などを熱心に見ている。
今 パナソニックの 23LX60 というのをマークしている。
スキーや 山登りや カメラや オーディオに 凝っていた頃 「情報」には やたら詳しくなった。実行したり 購入したりとは別の話である。
PSP というゲーム機にも興味がある。買いたい。孫の写真のアルバムを作ったり ワンセグとかでテレビを持って バス電車に乗ってみたいのです。
デジカメも 広角系がほしい。リコーの評判が あまりよくない。とは言っても、価格コムの書き込みや 店員さんから聞いた話しだけだけど。
今 買うなら 多分 パナソニックの LX1。
静止画も撮れるハイビジョンムービーの サンヨーのが良いんだけど 10万以上するから「買いたいな」と夢見るだけにしても 高価でダメ。
同日 夜
豪州戦の開始を待っている。
インターネットであちこち立読みしていたら、SONYやFUJITUが ワンセグを受信するノートパソコンを 売り出していると知った。
ケイタイにカメラがあるのが当たり前になったみたいに、ノートパソコンにテレビが映るのも当たり前になるのかな。
三歳の孫が、雅子様(愛妻)のケイタイにメールを打ってくる。
「さしん」(写真)とか「へやわきれえ」(部屋は綺麗)とか。
ひらがなが書けないが大体は読める。
「さしん」と書きたいとき、さは、ケイタイのキイでみつける。
し は見つからないから母親に訊く。母親が「さしすせそ」と言うと さ のキイをちょんちょんと押す。
この話を使って 孫自慢や「いまどきの子ども」論ができそうだが。
実際は ケイタイで遊んでいるだけである。他の色んな遊びでも 色んなことを学習しているのだが、ケイタイの場合は 学校教育と直結しているように見えるので 親やジジババとしては「頭のいい子だ たいしたもんだ」ということで にこにこしている。
2006年6月13日 火曜日 晴
消費熱が冷めた。
と言う書き出しで何を言うかと言うと、
柴田静男の 液晶ワイド不十分ハイヴィジョンテレビの購入熱が 大分下がった。
ゆうべ 豪州に 負けちゃった。終盤 ガタガタって いかれちゃった。
こうなると、テレビ購入のためには じゃなくて 決勝トーナメント進出のためには、一位豪州 二位日本 という目が期待される。
そのためには 野球のワールドカップの敗者復活のツキを頼んで ジーコを 王監督に変えるか
または 戦時中みたいに 日本中の神社仏閣で 御祈祷をして F組の試合のたんびに 神風に吹いてもらうしかない。
ガンバレ ニッポン。愛国心だ。
2006年6月17日 土曜日 曇
豪州に負けた時点で トーナメント進出は絶望的だと思うのに。
テレビでは 開幕前と同じトーンで 一次リーグ突破を目指して盛り上がっている。
と言う書き出しで何を言うかというと、
昭和7年生まれの 軍国少年世代としては、なんとなく「本土決戦」「神州不滅」を思い出す。
テレビにも、営業の都合や 立場ってモンがあり 「これでもうだめ」 とは言えないだろうが、それにしてもなあ。
ボクにしても テレビを新調してもらうのには 「まだまだ このシナリオで 決勝トーナメント 進出!」の方が 都合がいいんだけど。
スポーツ番組だから 本番用と 収録後の本音とが別でも そりゃあ かまわないが。
報道番組でも そういうことは あるんだろうなあ。
何はともあれ 吹けよ神風 ガンバレ ニッポン。愛国心だ。
2006年6月20日 火曜日 曇
クロアチア戦も引き分けに終わった。今現在、組でビリ。
こうなったら、テレビ購入のためには じゃなくて 決勝トーナメント進出のためには、ブラジルに「ジーコを守れ」の精神を発揮してもらおう。
そのためには、森前首相あたりにも出張ってもらって、そのときにはそのときなりにナニするから、という外交努力をお願いしよう。
何はともあれ 吹けよ神風 ガンバレ ニッポン。愛国心だ。
2006年6月21日 水曜日 曇
転倒!右手中指 数針縫う 大怪我!
W杯のニッポンの危機でフザケテいたらバチがあたった。
孫(間もなく4歳)と老夫妻とで公園に行った。孫は自転車(補助輪付き)で行った。
道が下り坂になって、自転車が転がり出したのを止めようとして失敗。転倒。
自転車も転倒。孫、放り出されるも、結果的にわずかな擦過傷。
祖父、激痛に起き上がれず、倒れたまま。
祖母、孫を助け、ケイタイで母親を呼ぶ。現在地を確認されて絶句。孫に「野球場のそばだよ」と助けられる。
2006年6月22日 木曜日 曇
昨日、午後 怪我して 緊急外来で、レントゲンだ 洗浄だ 縫合だやって、家へ帰って夕方の廊下の光で記念写真撮って 夜、麻酔も切れて 興奮も収まったら 体のあちこちが痛いことに気付く余裕が出来て、眠れなかったので 起きだして、上記21日の欄を作っていたら 途中で 出血が始まったのに気付き オッカナクなって 中止。
今日 朝8時のバスで 同病院の 整形だか 形成だかの外科へ行って 受診。ホネその他異常なし。しみる薬塗って 午前中で 終わる。「また 明日おいでなさい」
バス旅行 歯医者さん 町内会行事 あちこちキャンセル。
それだけで疲れて コンビニ弁当の昼食後 布団に入って 眠る。
明日の 明け方 ブラジル戦のわけなんだけど こう 寝てばかりじゃ 明け方は 寝付いたばかりかもしれない。
2006年7月5日 水曜日 雨
お友だちから電話が来て
「梅 要るう?」
「要る」
多量にくれそうな口ぶりだったので、めったに動かさない車でとりにいく。
多量にくれる。
梅酒、梅干と、梅ジュース、梅ジャムと、用途別袋分けと作り方説明付き。
ごってりもらってきて、カミさん迷惑がるかと思ったら、
「うわあ、いい梅だねえ」と喜ぶ。テイシュほっとしたりして。
カミさんはショウチュウだの砂糖だのを買いに出かけたり、テイシュは重さを計ってざっと洗ったり、ちょいとした騒動。
うちに 梅の香が漂ったりするんでありますよ。
カミさんの友だちに、元栄養士のお料理上手がいて、
「曽我の梅を、手もぎした逸品!」と話すと、ぜひほしいという。
恩に着せて「分けてあげる」
あげるとすぐに梅ジャムを作り始めて、電話してくる。
「これ いいわあ。こんな梅 初めて」
右の写真は、御存知、梅酒作り。
初日なのに、色が赤いのは「ショウチュウが足りなかったんで、梅酒を入れたから」とカミさんが言った。
梅騒動は今朝も続く。
これは、梅干作り。
いくつもある種類や作り方のうち、いちばん楽そうなのを採用。
ガラスの容器を調達したり、梅を干すときに備えて、ざるを
「たしか、あれは捨てなかったハズ」と探し出したり。
テイシュの飲み分のショウチュウを流用したり。
これは、ゆうべ煮詰めたウメジャム。
元栄養士のお料理上手カリスマ主婦による、電話実況放送指導による。
つきっきりで、しゃもじでお鍋をかき回す工程では、テイシュも参加。治りきってない右手にしゃもじをつかんで、攪拌。
種も煮込んじゃった。ビンにもそのまま入れちゃった。
種を除くのは、パンにつけるとき、じゅうぶん、しゃぶってからにする。
孫がいま「機関車トーマス」の季節である。
次から次へ注文が入る。
熱心に応える。
これは、トーマスシリーズ作りのきっかけになった最初の「作品」
車は、ペットボトルのキャップ。車体は発泡スチロール。
キャラクターも、まだ、ドラえもん。ナンバーが「J4」なのは、潤4歳。
ドラえもんに続いて、ジャイアン、ドラミちゃん。
発泡スチロールに絵の具で着色するのに、サンドペーパー、との粉、糊などを使う工夫をしました。
客車の車体も、ダンボールや折り紙で、このあたりは、今と比べるとノンキなもんでした。
トーマスシリーズ 始まる。
車体に、発泡スチロールと木を併用。
車台の巾は 4センチ、全長、13センチぐらいかな。
車輪の製造が進歩し、キャップが紙粘土から外れたという苦情、なくなる。
これは、トーマスシリーズの中の「バーティー」という名のバス。
車体も、車輪も、オール木。前輪左の、ホイールカバーをどうするかが、眼目でした。結局、彫刻刀でくりぬきました。たいへんだったです。
孫が、気に入って寝るときも抱いて寝たと聞いたので、おじいさんはニコニコして、また、次の車を作り始めました。
2006年11月30日 木曜日 晴
急行列車スペンサー
設計に失敗して、運転席が炭水車に見える。
孫は、そんなこと頓着しなかったが「色が違う」と全面塗りなおしを指示されてしまった。これは、水色を塗り直してOKが出た写真。
これはエミリーという名の機関車です。
お話の中では、女の子らしいのですが、孫は男の子だといいます。
三つの車輪の、中のだけが大きいのが珍しいらしくて、注文を受けました。
色は、水彩絵の具に糊を混ぜて塗った上に、ニス。顔は、紙粘土。
2006年12月17日 日曜日 雨
パーシー
「どうして おこってるの?」
「チビって 言われたから 怒ってるの」
発泡スチロール。木切れ。顔は紙粘土。
ピストンは 厚紙。
色、ほんとうは もっと薄い草色。今んとこ、塗りなおし命令 なし。
2007年3月16日 金曜日 曇
ゴードン。
急行列車の機関車である。
ドラマの中でも、トーマスやその他の客車たちと比べると大きく、誇り高く、威張っている。
それにしても、このゴードンは、直径7cmの紙筒を利用して作ったので、バカデカクなった。
孫がこれを初めて見たとき「ウワッ」と言ってジャンプしたので、じいじはにこにこして大いに上機嫌だった。
だが、動かすと音がでかくて、団地住まいでは階下に気を遣うので、持って帰れない。
2007年4月15日 日曜日 晴
今年もまた、牡丹が咲いてくれました。
上と同じ写真を、なんでか?って言うと
カメラを、新しく買いたいから。
「理由」を、下にくどくど書く。
二枚の写真の寸法は、横640ピクセル。
下のは、撮ったときから、640ピクセル。
上のは、2000ピクセルのサイズで撮ったものを、640に圧縮。
よく見れば、開いている牡丹の花びらの調子が、下のは白がとんでいて、上のはまあまあ。
ボクのカメラは、195万画素で、巾2000が最高。この頃のカメラは、700万画素とか1000万画素とかで、巾が3000とか、3600とか、「大きく」撮れる。その分「きれいに撮れる」
牡丹の花びらが、一枚づつ見えて撮れる。だから、新しいカメラを買いたい、と、そういうわけ。
夜の九時半に平塚を出たバスが、早朝、新大阪ホテルまたは同等クラスに到着。ホテルに荷物を置いて自由行動。今明晩はこのホテルへ泊まる。明後日の昼に大阪を発ち、平塚着夜の八時の予定。――という筈であった。
何年か前から、司馬遼太郎記念館に行く、行くと言っていた。新幹線だと、大阪フリーの割引を使っても値が張るし、飛行機の方が安くても、大阪行くのに羽田まで行ったり、帰ったりするのも気が進まないし。そしたら、
ゴールデンウィーク大阪自由旅行4日間 お一人様18,980円
というすさまじいバスツアーをめっけて。
「宿泊はビジネスホテルで、御夫婦様でもシングル二部屋になります」
かまやしねエ、平塚発が嬉しいと、早速申し込んで、図書館行ったり、インターネットやったりで、大阪を調べ始めた。
大阪着が5月7日で、この日は月曜日。司馬遼太郎記念館は休みだから、神戸見物に行く。
ホテルのある西中島南方から御堂筋線で梅田。地下街や大阪駅を見るなどしてから、阪神で三宮へ。阪急でなく阪神を使うのは――
タイガースファンということもあるが、小学生の頃、尼崎に叔母がいて夏休みを叔母の家で過ごすということが、何回かあった。出屋敷とか武庫川とかいう駅名におぼろげな記憶があって懐かしいから。
三宮に着いたらJR三宮駅前にある案内所でシティー・ループ(観光スポット巡回バス)の切符の買い方と乗り場を訊く。田舎から出てきた老夫婦という雰囲気を漂わせて、ガイドのお嬢さんに「とっときの地図も上げちゃおう」という気になって頂く。
一日券を買うから、予定の中突堤、北野異人館以外でも、窓から見て、ここと思うところがあれば降りて、見物して写真撮ったりする。
三宮駅に戻ってきた頃にはお昼になるが「神戸より大阪の方が安いんじゃない?」と言い合いながら、梅田行きの切符売り場を探す。
梅田に着いたらミナミを目指す。地下鉄御堂筋線をオロオロ探す。
先ずは動物園前駅まで行って、新世界。東京のお嬢さんが、その名を聞いて、交響曲のあの主題を口ずさみながらわくわくして行ったという新世界。(林芙美子の「めし」)
ボクたちの目当てはドボルザークではなくて、通天閣とじゃんじゃん横丁の串カツやタコ焼き。
じゃんじゃん横丁がなんとなくおっかなくて店に入れなかったら通天閣を外から見物だけ。
「そんじゃ新世界行ったってイミナイジャン」「いいの!通天閣の見える通りを歩くだけで」
そこから道頓堀までは歩けそうもないから、また御堂筋線。難波駅。
これはナンバだが、尼崎の叔母のうちへ行くときは最後は市電に乗って「ニシナニワ」で降りた。西難波と書いてあったと記憶する。
閑話休題。お目当ての、グリコや、かにの看板の近くに「道頓堀極楽商店街」と紛らわしい名前のテーマパークが入っているビルがあるという。入園料が315円と税金分がハッキリした数字。その中にお好み焼きや串カツ屋もある。
子どもの頃から、暖簾を分けてはいる専門店はおっかなくて、デパートの大食堂みたいな店ばっかり入ってた。じゃんじゃん横丁で食えなかったら、ここで食う。ここだって一軒一軒暖簾がかかっているんだろうから、おっかないのは同じだろうが、コンクリのビルの中って分だけ安心じゃん。そんな気がする。気は心。
法善寺横町、水掛不動さんも見ておくか。
道頓堀橋から心斎橋までは歩くつもり。御堂筋。鶴岡親分が杉浦を得て、宿敵ジャイアンツを4タテ、悲願の日本一、優勝パレードをした道筋。(なんのこっちゃ?1959年の話さね)
お年寄り二人、じさまの方が赤いリュック、ばさまの方が黒いリュックを背負って、ひょっキョロひょっキョロ歩いていく。デパートを見上げて
「入ってみる?」
「もう 帰ろうよう」
などと言っているうちに、地下鉄への降り口を行き過ごし、ショウウィンドウの縁に並んで腰掛けちゃったりしてる。これで明日、司馬遼太郎記念館いけるのかねエ。
いよいよ、この旅行のお目当て司馬遼太郎。先ずは今井町。「街道を行く」で読み、同名のテレビ版で俯瞰した町並みの屋根瓦の見事さが印象に残った。行っても俯瞰できる位置までは登れないだろうが。望遠レンズもないし。
近鉄大阪線の大和八木という駅まで行くのだが、難波からだと鶴橋で乗り換えるらしい。今井町の最寄り駅は橿原線の八木西口なのだが、乗り換え案内で見ると大和八木、八木西口間が1分になっている。大和八木から歩こう。
途中、橿原市役所へ寄って観光地図を貰おう。
今井町を見終わったらいよいよ司馬遼太郎記念館。奈良線に乗り換えるのに、急行で鶴橋まで戻るのが良いらしい。
河内小阪駅下車、途中、小さな公園にある「21世紀に生きる君たちへ」文学碑を見て、記念館。
大きい書架見て、バンダナ買って出たら駅と反対方向へ歩いて、「街道をゆく」の挿絵画家須田剋太の絵のある「喫茶・美術館」に入る。
「チョット、チョトオ!」
さっきから聞いてりゃ、文学碑だ、バンダナだ、喫茶店だって、アンタほんとに司馬遼の本、読んでんの?
そこ、出たら八戸ノ里駅まで歩く。駅前の「珈琲工房」に入る。こちらが、司馬遼がよく立ち寄ったという喫茶店(らしい)。
予定だと、5月9日 水曜日。第三日、旅行最終日。昼に大阪を発ち平塚着20:00予定。
午前中は自由行動。うまく行くと、平塚から大阪に来ている旧知と会うかも知れない。向こうは、若い現役だから都合つかないかもしれないが。もし親切で
「天保山行きましょう。海遊館のサメ見に。大丈夫、午前中で十分帰って来られます」
と言われても多分寂しく笑って遠慮する。大水槽も見たいし、天保山には海抜一メートルの三角点(本邦最低の山)があるという。それもチョット見てみたいが、やめとく。
帰りのバスの出るJR大阪駅付近にいましょう。せいぜい梅田スカイビル空中庭園展望台ぐらいまでか。
それにしてもダ。この旅行は「定員に達せず成立しませんでした」と連絡があり「同様の企画は夏休みごろあるかもしれません」だそうだが、計画をこう書いてみて、
「夜行バスで行って、ビジネスホテル2泊のツアーじゃあ、ちょいと体にムリなんじゃない?」と弱気にもなりました。ま、そのうちなんとかなるだろう。
2007年5月16日 火曜日 晴
第一農場を横断する架け橋。Wルになった。
再び 建設された池。
縁側から庭園に出るのには、第一農場を横断しなくてはならない。
農場をあまり狭くしない規模で横断橋を作って、庭園に出ていた。
近頃、足元がおぼつかなくて、橋の巾をを広げなくては危険になった。
思い切って、もう一つ橋を増設した。
第一農場は、かっては池であった。見事な錦鯉が何匹も遊泳していた。隣が全農のアパートだった時代、前庭の雑草駆除に薬品撒いて、うちの鯉が一晩で全滅した。
最近、御近所が
「お孫さんに」と言って、めだかを六匹、水草数本を下さった。
池の復活である。
下が、橋と池の全景。
ふとしたことから 「水のある風景」写真コンテストに 応募してやろうと思い立った。
我が家は相模川に近い。土手まで歩いて四、五分である。
近くに橋が架かっている。神川橋という。
「神田村と寒川町とを繋ぐから神川橋」という、無機的な命名の割には歴史は古い。昭和13年には木橋が、昭和28年には石橋ができたという。
両岸に大きな町がないのに大河に橋が架かったのは、街道だったからである。江戸からの大山詣での道、大山街道は、ここで「田村の渡し」を渡っていたのである。
これは撮影とは関係ない。一席ぶっただけ。元 学校の先生。
土手から、四輪駆動の軽なら行けるかな? という砂利道を下まで降りると、堆積した土砂の間を、放水路から出てきたばかりの流れが、本流に向かっている。
それを渡る。浅いが滑る。
渡った向こうの中洲。草ぼうぼうの中に、踏み跡の道筋がある。
ここを進む。20メートルほど。気味悪い。
「へえびも(蛇も) まむしも 出てくるな」
と念じながら進む。
このオマジナイは、私の親父が山へ蕗を採りに行ったときに愛用した念仏。
堰が姿を現す。
ウチからみて対岸に寒川の浄水場があって、ここに取水口があるのである。
鮎が遡られるように、堰の一部がスロープになっている。
そこに白鷺が来る。それが 撮影のねらい目。
コウシャクをもっと長々続ける予定だったが、昨日までの「作品」を並べることにした。
コウシャク長々は、明日。
6月8日 朝 7時43分
6月7日 昼 12時3分
6月13日 夕 4時58分
6月13日 夕 4時58分
6月12日 昼 2時56分
ねらいを目指した展開のイメージがあって、意気込んで授業に望む。授業が終わって、その実践記録をみんなの前に出す。意図や言い訳をいっしょうけんめい語る、ということが多かった。
6月15日 昼 11時43分
画面の殆どは水にしたいのだ。この写真では、上下のちょうど真ん中あたりで、空と水が分かれている。
白鷺はいつも、石の上でじっとしている。
下の写真は、その説明のために撮ってきたのだが、シャッターボタンに指をかけて待っているときは、もうチョイ下向きで、上端が右の森のてっぺん辺りである。
白鷺はめったに飛び立たない。一羽が飛び立っても、続いてボクも、ということもない。
それが「飛んだ!」となると、張り切っちゃって、いっしょうけんめい白鷺を撮っちゃう。空が多くなる。
ねらいを決めて展開の計画をつくったり、授業をしたあとになって、
「あらっ ねらいが明確でなかったんだわ」 ということがよくあった。
6月17日 昼 11時28分
6月17日 昼 11時25分
「これで出来上がり」と私が言う写真は、きっと、上の二枚のような写真になると思う。
これを撮った日は曇りで日差しもあいまいで、空も暗かった。
梅雨が明けてカラッとなったら、また出かけていって、もうちょいコントラストの強いのを撮ってくるが、構図も、ピントの位置も、流れの止め方(シャッタースピード)も、この写真と同じにすると思う。
白鷺君の位置やポーズがどうなるかは、運次第の面もあるが、問題は、流れに注がれる日差しのつかまえ方で、こちらはボクちゃんのセンス次第で、いやンなちゃうわァ。
カメラを構えていたら、空気銃を撃った音がして、白鷺が一斉に飛び立った。
撃ったのは俺じゃないぞ、と主張しなくちゃと思いながらシャッターを切った。主張する相手は白鷺にではなく、誰か咎めに来た人に。
6月17 日 昼 11時36分
空を明るくしようと、画像ソフトで色調をいじったら、元よりも汚くなった。
この後、白鷺は戻ってこなかったので、この日の撮影は打ち止め。
ふだん 「あれはああ、これはこう」と説明ばかりの授業をしていて、おおぜいが見に来る研究授業のときになって 「さあ、自分の考えを言ってごらん」と優しく生徒に呼びかけても。
6月17日 (ここの、一つとんで上の日の、末尾)で、
「流れに注がれる日差しのつかまえ方」 なんてコトバをつかったことについて。
日差しをカメラでつかまえるなんて技術など持っていないのだ。
ふだん、そんな感覚で写真を撮っていないのだ。
「今度 お天気の日に行って キラキラ光るのを撮ってきたい」ぐらいが精一杯なのだ。
だいたい風景写真なんて撮ったことがない。カメラも、そういうカメラで、旅行に持ってってパチパチやるやつだ。
「水のある風景」写真コンテストに 応募してやろうと思い立つのが図々しいのだ。
それをだな、ちょっと同じ場所へ何回か通ったぐらいで
「流れに注がれる日差しのつかまえ方」 って、利いた風のコトバをつかうなんざ、片腹いてーよ。
目下、晴天待ちで、川へは行ってない。
梅雨が明けたたら、流れに注がれる日差しつかまえにいくつもり。
バケツの池の水草が増えて、手狭になったので
「池をつくりたい」と言ったら、2006年7月5日の、梅のおともだちが、
「これ、持ってく?」と、箱をくれた。(写真 左の 水色)
玄関脇に埋め込もうと掘ってみたら、配水管が出てきて、わずかに巾が収まらない。(写真 右の中央 ねずみ色塩ビ)
梅のおともだちにメールしたら、
「出て来たパイプは塩ビOr鉄?サイズは?用途は?上水Or下水?」と、返事が来た。
「別ンとこ掘るからいいよ」と答えた。
梅のおともだちは、行動がダイナミックで、工具類も何でも持ってるので、トラックで駆けつけられてはタイヘンと、あわてて答えた。
大型台風4号が鹿児島に接近している。
ここ平塚でも、昨日までと違って、本格的な雨天になっている。
傘を差して農園を巡視した。「じゅうろく」の棚でトンボをみつけた。葉のかげで雨を避けていた。
部屋に戻ってカメラを持ち出し、1メートルまで近寄っても、じっとしていた。
フラッシュが発光して何枚か撮影したが、じっとしていた。
今もまだ、じっとしている。
相模川に行った。
梅雨で増水していた流れがまだ引ききっていなくて、中州へ渡るとき、長靴の中に水が入ってきた。
今まで、中州からまた五、六歩本流に入って撮っていたのだが、今日は深いし速いしで、とても川に入るどころではなかった。
ごみがいっぱいあった。流れの中にも、道にも、中州の砂利の上にも。ペットボトルが目立った。
上の写真は、30分の1で切った。水の流れが出るかなと思ったが、そうでもなかった。
もっとおそいシャッターを切らないとダメらしいが、三脚がない。
水が引いたらまた行って、砂利に座り込んで撮ってみよう。
右のは、プログラムAE 650分の1。
相模川に行った。
水は引いていたが、ごみはたくさん残っていた。
鳥に落ち着きがなかった。
空も青くなかった。
十分程度で、早々に引き上げてきた。
鳥に落ち着きがなかった、と書いたのは――。
今まで、鳥はダムのスロープのところで所在無げにしていて、一羽が飛び立っても、続いてオレもということはなかった。
この日は、やたら動き回り、飛び回っていた。
八日の晩、ここで花火大会があったのである。寒川町の花火大会で、まさにここで、一晩、ドッカンドッカンと大きな音がして、花火が開いていたのである。
鳥たちは、目下、朝青龍。平静心を失っている。
相模川に行く道桜並木の一部にアジサイが並んでいる。
いまは葉だけになっているが、この季節、花盛りのアジサイがある。赤い。
こういうのもあるんだと、びっくりしている。
青空が出ない。
晴天だと、相模川へ行くようにしているのだが、九月以降、行ったのは三度ほどである。「雲ひとつない」「抜けるような」「日本晴れ」といった空は、一度もない。
水や、鳥のバックになる、遠くの低い空はいつもぼんやりしている。
九月の台風で相模川も二度、大いに増水した。一度は避難勧告が出た。
河原の様子も一変した。
鳥のいる堰まで河原がつながったが、今まで撮っていた場所には近づけなくなった。川砂が山のように一箇所に溜まっていたりする。
一変した、といっても堤防に囲まれた水の通り道の範囲での話で、堤防の真下の住宅も団地も氏神様も、いつもの通りの佇まいである。
堤防の決壊がそう珍しくなかった当時の人は、何年かおきには暮らしが「一変した」目に遭ったのだろう。政治は治水、など言う言葉を思い浮かべて、いい写真が撮れない分を、感慨深げに帰ってきたのでありました。
これは撮った写真ではない。画像編集のソフトを使って、描いたりフィルターをかけたりして加工して作った写真(?)である。
何度か作ったり印刷してみたりしてここにきた。が、全然「できた!」という気がしないのは、もともと、自分の描きたいイメージがはっきりしないまま作っているからだ。
「まあ、こんなとこだな」
奥さんが、近くに住む妹と、バスツアーで河津桜見物に行った。
私は 留守番。妹の旦那は、朝、駅まで、二人を送る。
わが町、田村は、昭和三十年代まで、農村だった。 生垣や、植木のある家が多い。
この 河津桜は、カミさんが伊豆へ行った日に、田村の七丁目で、撮影。
花を撮るのはむつかしいので、鳥がいればこれ幸い。
鶯だと思ってシャッターを切ったが、目白らしい。
花の蜜を吸っている。
ふと見ると梅の花に日が当たっていた。バックに柚子があって具合が良い。
ああかな、こうかなと、しばらく(一分ぐらいかな)梅を見上げてからカメラを取り出した。絞りを浅くして、ピントに自信がないままシャッターボタンを押した。
三枚で止めといた。いつもはもっと数撃つのだが。
上の写真の原板がこれ。原板とは言わないな、もとデータか。
上の写真は「光をつかまえた」感じがして、少々誇らしげなのだが。
撮る時に仕上げのイメージがあったわけではない。三枚のうちの一枚の「この部分 いいんじゃない?」で、作っている。
もひとつ。上の写真をプリントしてみると、梅の花の光と影がのっぺりしていて、モニターで見るのとずいぶん違った。
プリントしたのはは葉書版で1127KB. ここの上の画像は、それをウェブ用に軽くしたから 101KB。
プリントした紙が安物のせいもあるが、デジカメの写真見るならモニターに限るというのも一つの見識。
で、何を言いたいかというと、「ビューワー 買おうかな」
山越さんが河津桜撮って、WEBのアルバムを通して見せてくれた。見事だった。
「負けるもんかい」と、
歩いて30分の病院へ行くのにカメラをぶら下げていった。
横内中学校のサクラが一本、花をつけていて、行き帰りに狙ったが、この日は曇りだったせいもあって、結局全部「削除」
午後、受け持った子の見舞いにいったら、この白い花が真っ盛り。「びゃくれん」って教えてくれたかな?お日様が雲の中だったので、初めから狙わなかった。
次の日、図書館の帰りに神田小学校の裏を通ったら、白い花の木が見えた。阿藤さんちだった。南側が路地なので方向としては太陽を背にする形になる。「太陽が高いので、見上げれば逆光気味になる」ホントかどうか分からんが、花を見てそう思った。
サイズM3(1600×300)のままで「トリミングなしでとるぞ」と意気込んで狙った。
今ちょっと、ニコニコしている。「自分的にはまあまあってカンジ」
一本のサクラの木に紅と白の花が咲いていた。
自由に中に入れない条件だったので、生垣越しに撮った。
下の写真は、確かに一本の木に赤と白だよと証明したくて、別の角度から撮った。
小学校のそばの社宅の庭。住んでる人はいない。一帯は柵で囲まれ、社宅も廃屋って感じ。
一本のツバキの木に紅と白の花が咲いていた。
勢い込んで「今度はツバキの紅白」って、奥さんに見せたら「ツバキは よく聞くネ」と、おどろかなかった。
一般に、一本の木に違った色の花をつけるというのは、クロウトには珍しくない話なのかもしれない。
右は、
田村には、花のトンネルの歩道もあります
という写真。
windows7で書く最初の文である。
10月ごろDELLのノートを買った。vistaマシン。
相談した甥は後々の面倒見を考えてE社を薦めたのだが、値段と「セブンへ無料でアップ」につられてDELLにした。甥にはまだ言ってない。
先週セブンがCDROM二枚で送られてきてインストールした。自分では理解できないコメントがいくつか出たり、キカイがパタッと止まってしまったり色々あって、それでも二日がかりでガッシャガッシャやってるうちに、セブンが立ち上がるようになって(まだ何かしろみたいなことを言ってくるが、それを無視して)今これをセブンで書いている。
魚焼き器。パカッと蓋を開けて、上下から焼く電気のを使っていたんだが、こないだ「上のほうが赤くならない」になって、奥さんは秋刀魚をひっくり返して焼いた。
買い換えることにして魚焼き器は「燃えないごみ」に。
カヴァー部分がネジ止めだったので分解してみた。単純な断線だった。半田付けしてみたがどうにもくっつかないので、ぐるぐる巻きにつないで組み立ててみたら「上のほうも赤くなった」。つまり直った。
でも買い換える。分解してみてわかったことは、つくりがえらくチャチなこと。回転部分など、良くこれで製造許可になるもんだと思うくらいの軸や軸受けだった。つまりは消耗品扱いと言うこと。これは、いまさらびっくりする方が間違っていて、壊れたら即買い替えは常識なんだね。今日買ってくるやつはもう分解もできなくなってるんじゃないかな。
で、題を「WINDOWS7と魚焼き器」にしたのは、
この年ンなっても相変わらず、分かりもせんものガッシャガッシャやってると、ちょっと自慢したかったからだが、この年ンなっても「あれがほしい、これがほしい。宝くじを買おう」だから、自慢にはならなかった。
日本で一番短い名前の市は、三重県の津であることは良く知られている。一番短い名前の村は、ここ田村 つまり田であった。
――というハナシには、ちょっとムリがあるのだが。
「神田郷土史考」(平成二年 岩橋喜四郎)によると、
「明治22年の町村制施行により、大神村、吉際村、田村は合併して神田村となる。」とある。だから、「それ以前」という条件付なら、「一番短い名前の村は、田村」はムリなく成立するのだ。
それ以前という条件を ムリがあるとするよりも━━。
当時田村やその周辺の住人は誰も「田村」を「田という名の村」とは思っていなかったと考えて、「ちょっとムリがあるのだが」とした方が話は面白くなる。
田村は、田村と書く以前からタムラ(多牟良)だったらしいのだが、「表記は後から付いてきた」は日本国中そうだろうから、おいといて。
村という語が、制度としての「市町村」はおろか、支配区画の単位として使われる以前から(オオカミを大神村とする以前から)田村は田村の表記を使っていたらしい。
奈良時代。元前鳥(モトサキトリ)郷の四之宮に属していたころ「四之宮に水田無しここにのみ水田あり故に田村と称す」
鎌倉時代、戦国時代、江戸時代と「田村」には色々記録やエピソードがあって、言い伝えを含めると大和時代の坂上田村麻呂に至るのだが、そういうマジメな話はここでは置いといて。
「田村やその周辺の住人は誰も「田村」を「田という名の村」とは思っていなかった」と想像して、面白がるのが「アシタノココロダア」
私の住所は 神奈川県平塚市田村八丁目×の××である。市に続いて村が来てもヘンだとは気づきもしない。
明治22年、田村が、大神村 吉際村と合併して神田村になったあと、田村の人たちは、たぶん 当たり前のように 中郡神田村田村××番地と書いていたと思う。
神田村が平塚市に合併したのは、昭和31年。私が神田小学校に着任したのが 翌32年なのだが、神田村田村の表記はたくさん残っていたように思う。
さて。
神田村時代の農地売買の書類を見せていただく機会に恵まれた。公文書である。
そこには 農地の所在が、中郡神田村大字田××番地と書かれていた。同じ書類の別項に 神田村大字大神××番地と書かれた土地もあった。
と言うことは、田村は神田村になる前は 田という名の村だったという解釈なのだろう。元大神村は 神田村大字大神で 元田村は 神田村大字田というわけである。
興味深いのは その書類の中で 住所の欄に 神田村田村××番地と表記されてた部分があったのだが、それでもその文書には でっかい、二寸(6センチ)はありそうな(小田原裁判所か何かの)角印が どっかんと押してあって 公文書として認められていたことだった。
土地の所在の書式と 人の住まいの書式は 違っていても お構い無しだったのかもしれない。
以上で
・田村は日本で一番短い名前の村だった
・田村(やその近在の人たちは)そんなことおもってもいなかった
━━というおハナシはオシマイなんだが。
私がいま気になっているのは、
「村」という語が時の為政者によって、地名の下につけられるようになったとき(村と決めた地域ごとに、村役人などがおかれて行政の単位になったとき)
ということだ。特に 2番目について、いろいろ自分勝手に 為政者側の担当者や 住人のやりとりを想像して 面白がっている。
これは何を撮ったかというと、上方に咲いている花二輪。荒れ地に咲く豆の花。
ここの荒れ地は元何だったかというと、十六インゲンの棚のあった農場。十日ほど前に棚を撤去したとき、脇に生えていた青い葉っぱの蔓は抜かずにおいた。それが花をつけました。
という写真。
母の日に送られてきたカーネーションを、四、五日ほどで贈答用籠入りポットからプランターに移した。咲き終わった花を摘んでは、あわよくば冬を越させようと面倒みていた。
そしたら、また花をつけ始めた。「母の日にもらった花、敬老の日にまた咲いたよ」と贈り主に写メした。
豆といい、カーネーションといい、こういうのも今年の酷暑のエーキョーでしょうかねえ。
中央と下の葉の茂りは、紫蘇。右下の白い花と併せて「うちの庭は 私の作るものより勝手に生えてくるものの方が 元気がいい」を書こうと思ってカメラを持ち出した。
ファインダーをのぞいてみて 気が変わって 上の写真になった。うちの庭の説明。
左は東隣のお宅。上は南隣のお宅。@は 小学二年の孫が 幼稚園の時集めてきた紅葉の種を植木鉢に播いといたものの移植。Aは 上欄「猛暑の名残?」の十六インゲンの花の場所。(もう豆になりかかっているので花は見えない)
左方 柵に寄りかかっているのは 昔教えた子(といっても 今は おばあちゃん)からもらった アジサイ 墨田の花火。
です。
ねこじゃらし。
うちの孫は「タバコ」という。散歩の時、見つけると私が穂の下をつまんで引っこ抜いて 口にくわえて 歩き出すからである。 今では先に見つけて引っこ抜いてきて 私にも一本分けてくれる。二人でタバコをくわえて歩く。
さて 上の写真。
下が 道に生えている普通のエノコロ草。上の でかいのは 八田さんちのエノコロ草。
八田さんちは 温室バラ農園。温室の一部が自分ち用の野菜畑になっている。なってはいるが 手入れの行き届いたバラの方に比べたら こっちは草ぼうぼうである。雑草畑の中でナスもなってる という感じである。
それでいて大根も菜っ葉もも見事にでかい。私は図書館の帰りに寄って しょっちゅう もらって帰る。自転車の籠からはみ出る。徒歩の時は 重くて 途中で何度も休む。
生えてる雑草もでかい。ねこじゃらしの草むらも あたりを圧倒する貫禄があった。でかすぎて タバコにはならない。
毎年 紫蘇は自然に出てくる。
夏のソーメンで重宝している。
花が咲いた。
久しぶりに 一眼レフで マクロをやった。
このところ マクロも CX3で済ましていたので ちょっと張り切って 本格マクロの意気込みだった。
二、三日続けてみたが やっぱ うまくいかなんだ。
外だと カッタリー(かったるい 気だるい の相模方言)ので 一輪?採ってきて 廊下で撮った。
じっくり腰を据えた 本格マクロのはずだった。
廊下で腰を据えて 何枚も撮ったうちの 一枚だが ドンピシャとは いかなかった。
フィルターで シャープをかけた。
ま こんなもんじゃ。
三脚持ち出し あれこれやるだけ よろしい。
写真も どうして なかなかの出来ぜよ。
いつもここで寝転んでいる。本を読んだりテレビをみたり。
本は図書館から借りてくる。いつも3,4冊。読み通すことをしないで、とっかえひっかえして読む。だから本は寝転んだまま取れるように横の本棚に置く。クリップ式の電気スタンドの中間スイッチが ちょうど枕元にくる。
テレビを見るときは、座椅子(よりだいぶん長いが)の背中を立てる。一度起き上がって、カチャカチャッと手動である。いずれ、電動で寝たままグイーンってのを使うようになるのだろう。手作りの台の上に各種リモコンが置いてある。
自分で気をつけて外を歩くということをしないと、一日、ここでごろごろしたり うとうとしたりというのが、ぼくの日常である。
11日の晩御飯は「和食のさと」だった。近くのファミレスで うちあげをした。参加メンバー、私と雅子様、以上2名。二人の無事を祝うパーティーだった。
元日から7日まで東京から孫(小2)が来ていた。平塚の孫(小2)と併せて つきあった。
寒川神社、秦野運動公園、伊勢原こども科学館などに行った。ゲームやったり、買い物に行ったりした。
昼寝できなかった分 私は七時過ぎには床に入ったが、雅子様は宵っ張りの孫につきあっていた。
雅子様の日常のホームグラウンドは居間のテレビの前のソファーで、携帯や電話の子機やビデオのリモコンを目の前のテーブルに置いて 日がな一日そこに座っている。近所の八百屋へ行ってくると
「ああ、今日も運動した」と言う。
混雑の初詣に出かけていくなど、ちょっと考えられない日常の暮らしである。 私は、自分はともかく かみさんは孫が帰ればきっと 二、三日寝込むだろうと思っていた。
かみさんは、立体迷路の箱の中を 孫に誘われて這い回るダンナをみて(こりゃ もうあかん)と思っていた。
7日に東京の孫が帰り 10日に平塚の孫が一人で遊びに来て(母親はダウン)それにも 無事つきあい終えたので――
それで 11日に 二人の健闘をたたえて 打ち上げパーティーをやったと そういうわけですよ。
こないだ、鎌倉の八幡様を石段の下から見上げて「貧弱だなあ」とかみさんに言った。
鎌倉は、学生時代の四年間を過ごしたところ(学校も寮も八幡様の隣)で、その後も、在住の友人宅へしょっちゅう行っているが、八幡様を貧弱などと思ったことなど一度もなかった。
10月の初めに仙台へ行った。
宿は仙台駅まで小一時間の秋保温泉。ホテルのマイクロバスが朝夕仙台駅まで送り迎えしてくれるので、二日間仙台へ通った。
一日目は夫婦で井上ひさし図書館と松島海岸。二日目は、仙台のお友達が休みを取ってくれて、山形から出てきてくれたその母親と一緒に、市内循環バスに乗ったり、うちのかみさんの希望で「地底の森ミュージアム」というのへ行った。地下鉄で行った。
若い二人は(私の姪とその子どもなのだが)こちらをいたわってエレベーターがあるところを選びながら歩いてくれた。
歩調も彼女らにしてみればゆっくりにしてくれたのだが、こちらの普段に比べれば「さっささっさ」で、それでも割と平気に、楽しくしゃべりながら一緒に歩いた。
今 「目指せ月山 仙台歩き」がうちの老夫婦間でスローガンになっている。連れだって病院や買い物に行く道で。
山形の姪に仙台でのお礼をメールしたら、励ましの意味を込めて
(来年は)「山寺か月山にでも登っちゃいますか!?」と返事が来た。こちらのお礼のメールに、もう遠出の旅行は無理だからの思いが漂っていたのに対して。
現金なもので、それですっかり元気になって「来年は 山形。井上ひさしを訪ねる旅」という気になった。
仙台歩きというのは、普段前屈みになってとぼとぼと歩いている(田村歩き)のを、仙台で歩いたときのように胸張ってサッサと歩くことである。
近くのコンビニへ行った帰りにふと思い出して「目指せ月山 仙台歩き」をして颯爽と帰宅する。玄関の踏み台をどっこいしょと上がって、ドアを開ける前に大きく息をついて休んでいる。
2014年3月20日
田村第二長寿会
という名の老人会に入っていて
この三月で満4年間、書記を務めていた。
と威張って書くほどの仕事をしていたわけではない。
会報作ったり、写真作ったりして、感心してもらっていい気になっておりましたよ。
2014年4月19日
田村第二長寿会総会
老人会でも、会費(年間1000円)を集めているから、定期総会がある。決算、予算をあわせたシャンシャン総会だが、それでもやはり準備に手間はかかる。
私は書記だったから「総会資料」を作らなくてはいけなくて、たいへんだった。
というのはちょっと「うそ」で、去年の資料に多少の修正を加えるだけで、若い人ならちょこちょこっと半日ぐらいで完成という程度の作業の「はず」だった。
それなのに何日も何日もかかって、何枚も何枚もテストプリントをする仕事ぶりだった。
一太郎にエクセルの表を読み込ませるのに手間取った。
去年の総会資料を見て「うまくつくってあるなあ。どうやったんだろう」とため息をついた。去年の資料を作ったのは、自分である。
ミラノダービーがあった。夜3時に起きるのなんざ、どうってことない生活だから、テレビ観戦した。
本田対長友の対決と新聞が煽いだせいもある。最後まで本田は出てこなかった。
「ACミランは4日、セリエA第36節でインテルミラノと対戦し、ホームでのミラノダービーで1−0と勝利した。」(webからの切り張り)
「長友は先発フル出場したが、本田の出番はなかったため、注目された伝統の一戦での初となる日本人マッチアップ実現はお預けとなった。」(webからの切り張り)
以前(去年の春ごろ、本田はまだロシアにいた頃)、本田について書いたことがあるので、ここにのせる。
こういう写真はどうなんだろう。
長浜の町を歩いて疲れて壕に架かった橋のベンチで休んだ。私も向かい側のベンチで休んだ。
ちょうど人物の顔の真後ろに強い横線(橋の手すり)が入って、足元も横線(仕切りの石)、右左は対象的な家の壁で、真ん中人物の上が逆三角形に青空。
陳腐な構図だが、自分で何か妙に気に入っている。
なんでかなあ、と思ってふと気がついた。
それがこの写真をここに出した理由なんだけど、「小津安二郎だ」と。
自分で勝手に「右端の政治家のポスターも利いてる」と、いい気分になっているのだから、世界の映画監督小津安二郎さん、許してください。
三月に公民館祭りがあって、地区の活動の写真が貼りだされる。
私は、もう何年も「ふれあい福祉部会」の写真担当。
たくさんたくさん貼りだされる写真の中で、目立つように。サイズを大きくした。A3。(皆さんは、Lとか2Lとか)そんでも、ベタベタ並べられた中では、あんまり目立たない。
毎年のことで図柄が代わり映えしなくなったので、今度は{えッ、これ写真?)という加工で、目立たせようと習作中。
神田公民館の「敬老会」に出席した。
招待されたのだが、500円の会費を取る長寿会よりお弁当が豪華だった。
現役時代は、会合があると出ないか、抜け出すことばかり考えていたが、老人になってからは、地域の会合にこまめに出席する。おかしい。
大詰めはカラオケになった。出演を勧められ、リストを渡された。「この空を飛べたら」があって、心が動いた。
結局勇気が出なくて、中座して帰ってきてしまった。
夕食後、玄関外でタバコを喫っったとき、♪この空を飛べたらを、小さい声で熱唱した。
旅行社のツアーで「かみのやま温泉4泊フリー」に行った。
例によって山形在住のメイのご家族のお世話になった。それが目当てで東北へ行くんだけれども。
3ナンバーの新型スバルで、ホテルまで送迎というVIP待遇。
赤湯温泉にある熊野大社に案内された。由緒あるお宮なんだろうが、ありがたかったのは、境内のあちこちに全国有名ブランドの神社がたくさんあって、羽黒山とか厳島とか月山とか菅原道真とかお伊勢さまとか、次々お参りできてしまったこと。
その後利益もあって、楽しい旅になり無事帰って来れました。
台風18号は、平塚もテレビで報道されるほど(保育園児がボートで避難)浸水がひどかった。(我が家は無傷)
19号のあと、早朝念のためと家の周りを見て回ると、裏が水浸しだった。
あれあれと思ってみているうちに、今も水が流れていることに気づいた。
「どこから来ている水だろう?」農作業用の用具入れに使っていた古調理台をどかしてみたら、地面に穴が開いてきれいな水が湧き出ていた。
水道局に電話した。
砂利を積んだトラックや、パワ−シャベルを積んだトラックや、交通整理員も二人も積んできて、部隊は大げさだったが、作戦はシャベルで土を掘り出したりして、小規模だった。
帰り際、
「台風の影響?」ときいてみたら
「台風、全く関係ありません。典型的な漏水です」と、取り替えてた古い配水管を見せてくれた。
汚れを拭き取ると小さなひび割れがあった。
漏水が老衰に思えて身につまされました。
プロ野球の日本一を決める日本シリーズに出場するセントラルリ−グ代表を争うトーナメント(CS)で、阪神タイガースが優勝した。
リーグ戦で優勝したジャイアンツに不敗4連勝したのである。
ほんとはリーグ戦優勝の方がずっと価値がある。タイガースは2位だったのだが、もうちょっとのところでいつもジャイアンツに叩かれ、最終的には大差を付けられた2位だった。
(リーグ優勝チーム同士で日本一を争うんじゃないの?それはまた別の話)
私はタイガースファンだから、無条件でこの「快挙」を喜んでいいのだが。
タイガースは忘れた頃におかしなことをするなあ、という思いが強い。
子供の頃からのファンで負けてばっかりの阪神を知っているせいなのか、老齢のせいか、ひねくれもののせいか、やっぱ「やったあ!」という素直な喜びより、「おかしなことをするなあ」という苦笑いの方が強い。
ということは、結果が逆であったり(ジャイアンツに4タテ)、25日から始まるパシフィック代表との試合で散々な目に合わされたりしても、
「やんなちゃう」と、にこにこしているということである。
そして、実は、こういうタイガースファンは少なくないのではないかと思っている。
うちのカミさんは怪ッたい(けったい)な言動が多い。やんなっちゃうときがある。忘れた頃にならないと、すばらしさを発揮しない。
カミさんは野球音痴だが、そうでなければ阪神ファンだったでしょう。テイシュも怪ッたいな言動が多いから。
パシフィック代表との試合で散々な目に合わされたりしても、
「やんなちゃう」と、にこにこしている
前回(10月19日)は、わが阪神タイガースが景気のいい時だったから、調子のいいこと言ったけど、今日はもうヤケになってご機嫌が悪い。
甲子園で1勝1敗で福岡行って2連敗で、今日負ければもうお終いで甲子園へ帰って来れない。甲子園で二つ勝っとかないからこういうことになる。
今日も負けるナ。福岡で勝ったことないんだから。バカヤロ。
フレーフレー は・ん・し・ん! 甲子園の売店のおっさんが「帰って来んかい!」言うとりまっせエ。
「最終戦で負けても良いから、あと2試合、甲子園で頼んまっせエ」
用もないのに家に外に出たとき、見慣れた風景をみながら 年末の大掃除である。大掃除といえば一般には、特定の日に家中を天井からガラスから隅々まで大清掃するのだろうが。 渋谷がきた。 レコードをかけたら、雑音が入る。傷を拾うのと違う。音が途切れる。
用もないのに家に外に出たとき、見慣れた風景をみながら
公民館祭り。2/28〜3/1
マリノス、湘南ベルマーレから 3点もとりゃがって。
これ書くヤツ(エディター)も、上げるヤツ(FTTP)も変わった。
DELLのサポートへ電話する(一週間ほど前) 今月の初め、ふとしたことがきっかけで、このページをいじり始める。
昨夜のテレビ。どの局を廻してみても放送してなかったので、早く寝た。
今日早朝相模川へ行った。
今夜は、第七戦のテレビはあるだろうか。
2014年11月28日 金曜日 晴
カメラ談義
「入院して、これをもう一度みられるかと思う日がくるんだなあ」と思う。
家の前の行き止まりの路地を数歩歩いて通りへ出て相模川の方を見た。朝の日が出てくる前だった。
うちへとって返しカメラを持ち出した。
このところずううっとコンデジばっかりだったので、電池が心配だったが幸い使える状態だったので一眼レフを持ってった。
シャッター優先を選んだはいいが、それに伴う設定をすっかり忘れていた。モタモタしてるうちに空がどんどん明るくなってしまうので、いい加減でシャッターを切り始めた。
露出を雲に合わせてから露出補正をいくつかかけてと、いっぱしのことを考えたはいいが、露出補正がダイヤル式でなくて、どうやったっけ?でアキラメ。
ちなみに右の写真は同じ時刻に、ダイヤルをカメラ任せに合わせて撮った写真。
良く撮れてる写真。
ふだんコンデジでこういう写真ばかり撮ってる。今日(こんにち)のカメラはほんとによく撮れる。
ただ、このとき見ていた景色は上の写真。病院で思い出すのも、(良い写真にはならなかったが)上の情景。
入院の日が来るまでに、こういう情景を、良い写真に出来る日は来るでしょうか。
2014年11月30日 日曜日 晴
雅子様出窓に乗る
我が家の大掃除は、亭主の気が向いたときに、ある一箇所を掃除するのである。
一日に一箇所しかやらない。別の日に、別の場所をやるときもあるが、計画とかがあるわけではないから、気が向かなければ何にもしない。普段どおりのお掃除のまま、正月の近づくのを待っている。
このときは台所の出窓の大掃除。
旦那が棚やら鍋やらを移動し始めたら、カミさんが出てきてとめるのもきかず、椅子から流しに入って、そこから出窓に移ってごしごし汚れを取り始めた。
体調が良かったからだが、それにしても雅子様が流しの中から出窓の上って大掃除を始めるなんて、我が家の「この一年」の大ニュース。
2014年12月10日 水曜日 晴
友がみな
渋谷はまだAVに強い。
私が「大掃除をしたら昔のレコードが出てきた」と言って、45回転も再生できるチコンキ(蓄音機)をインターネットで探して「どれがいい?」って訊いたものだから、かけつけてきた。
「プレイヤーだけ買え」というから、アンプがないと言ったら、
「ソニーのMDコンポがあるだろ」
「説明書見たけど、プレイヤーつなげるとこない」
「そんなはずない。ほら、こことここぶっこめば、音出るはず」
で、買うべきプレーヤーを指定して帰った。
2014年12月14日 日曜日 投票日 晴
アナログ
レコード盤のあちこちが、中華料理のとろみをかけたみたいになってた。
管理不十分。不十分も何も、管理なしで捨てないでいただけ。
そういえば━━
おふくろが時々、押入れやたんすの中のものを外に出して、屋根に広げたり、軒下にぶらさげたりしてたなあ。
2015年1月19日 月曜日 晴
カメラ談義 この上の11月28日の続き
カメラは KOOLPIX P7100
一眼レフの PENTAX が重くて持ち歩けなくなったので、ファインダーがあって T(シャッター優先)M(絞り優先)があるという条件で選んだコンデジ。
ストラップに Nikon とあり、誇らしくも恥ずかしくもあるのだが、それを肩にかけて出かけるのも重くなって。
友人の弟が大学を出て RICOH に入ったのを祝って(という名目で) CX3 を買って、これはポケットに入る完全コンデジなので、近頃はもっぱらそれを愛用。
さて、この写真。 シャッター優先 1/25 isoオート 800。
なんてことよりも、家の周りの見慣れた風景。「入院して、これをもう一度みられるかと思う日がくるんだなあ」と思う風景。中央の街灯の明かりを、いつか、日の出と間違えて、一瞬興奮したことがあったっけなあ。
2015年2月12日 木曜日 晴
カメラ談義 年をとる
「入院して、これをもう一度みられるかと思う日がくるんだなあ」と思う。
カメラは 重たい一眼レフの PENTAX Km 撮影時刻は朝6時9分。シャッター優先モード。
これを撮ったとき、小躍りした。
昨日朝6時15分に撮ったのは、同じモード(シャッター優先)なのに、肝心の空が真っ白で、夜明け前どころじゃなかったから。
「おれはもうカメラも使いこなせなくなったのか」
今朝は、測光を空に合わせて半押ししてからフレーミングした。それだけのことで小躍りした。
2015年2月15日 日曜日 晴
スイセン
水仙の花が開いた。
この写真を撮ったのは昨日。
今日見たら、完全に開いていた。
この日付で、雪国の人に申し訳ない気分。
同じアングルだけど、ちょっと引くとご覧の通り。味も素っ気も無い。
教訓 カメラ持って散歩に行って「何にも無かった」と安易に言ってはいけない。
追記 下の写真、手前右は、日陰の庭から出してきた小松菜の鉢植えの日光浴。
2015年3月1日 日曜日 晴
公民館祭り
地域団体にとっては大きな年間行事の一つである。地域住民の多くは、無関心だけれど。私も現職の頃は、そういうのがあることも知らなかった。
私は田村社協の「ふれあい部会」の写真係。
毎年、けっこうがんばって作る。「きっと、評判になるぞ」と、嬉しがって作る。
当日、オレの写真の前は黒山の人だかりと胸ふくらませて会場に見に行く。
ほかの部会の写真の中に埋もれて、人は通り過ぎていく。
例年のこと。
2015年3月3日 火曜日 晴
公民館祭り 雅子さんの外出
2015年3月4日 水曜日 晴
縦書きU こんだ枠が小さかった
2015年3月6日 金曜日 晴
ベッドサイド
2015年3月8日 日曜日 雨曇
宝くじ
2015年3月13日 金曜日 晴
朝飯前
2015年3月16日 月曜日 晴
湘南ベルマーレ鹿島に勝つ 土曜日
2015年4月10日 金曜日 小雨曇
わりとあわただしい日々
2015年4月14日 火曜日 小雨曇
予定 うれしや
2015年4月17日 金曜日 晴
マクロ かなしや
2015年4月27日 月曜日 晴
三点もとりゃがって
よそから、 とれないもんだから。ブラジル野郎、すごい。
2015年5月 5日 火曜日 曇
いまさら
2015年5月8日 金曜日 晴
2015年5月19日 火曜日 雨
2015年5月31日 日曜日 晴
2015年6月16日 火曜日 曇
2015年7月13日 月曜日 晴
2015年7月19日 日曜日 晴
2015年8月15日 土曜日 晴
いろんなこと
私は一日外に出ないで部屋にこもる。
貯金箱。賽銭箱型の木製。一生懸命作る。
外でだけ使って、うちではカミさんが何か言うとすっ飛んでって耳元でもいちど言ってもらう。
2015年8月24日 月曜日 晴
くるま
2015年9月8日 火曜日 雨
2015年9月13日 日曜日 曇
2015年9月16日 水曜日 曇
2015年9月23日 水曜日 晴
ういんどうず10
このファイルの文法チェックでエラーがずらあああっと下のほうに並んでいる。
2015年9月24日 木曜日 晴
2015年11月18日 水曜日 雨
2015年11月25日 水曜日 雨
パソコン騒動
今年の9月に買ったDELL(パソコン)が故障して自分の手ではどうにもならなくなった。DELLの電話サポートは親切という話は山腰さんから聞いて知っていた。私には、電話をかけて相談するという習慣・体験がない。「電話では失礼」という感覚が抜けないでいる。DELLのサポートへ電話するのに勇気と決断が必要だった。
思い切ってやってみた。自動回答に番号を打ち込んでいるうちに意外と早く(二分ぐらいで)肉声の「もしもし」が聞こえた。嬉しくなった。
やりとりを始めたがようわからん。ツンボなので電話にはオビエが先立って結局「ご迷惑なので切ります」という。向こうは親切に「メールでも………」などと言ってくれる。
山腰さんに頼む(四、五日前)
わけを話して山腰さんに家に来てもらってDELLサポートと交信。
20分ぐらいかな、いろいろやって、結局「あさって、サガワがとりに来る、いいですか?」
DELL 旅立つ
25日予定通り佐川が来る。アタッシュケースに入れて持っていく。
行き先は、千葉県らしい。日本で直すらしい。
安心したり、感心したりで、不自由とか、心配とかを感じない。電話でのサポートのやり取りとか、運送会社との連携とか、感心することばっか。
この記事は、2009年に買った古いDELLで書いてアップするわけだが、こっちの方は、大いに不自由とか心配。
2015年12月15日 火曜日 曇
<2015年12月27日 日曜日 晴
2016年2月26日 金曜日 晴
2017年10月18日 水曜日 晴
復活の実験